ジャン=フランソワ・ミレー

生誕 1814年10月4日
フランス王国 マンシュ県グリュシー
死没 1875年1月20日(60歳)
フランス共和国 セーヌ=エ=マルヌ県バルビゾン
墓地 フランス セーヌ=エ=マルヌ県シャイイ=アン=ビエール墓地
北緯48度28分16.76秒 東経2度36分29.03秒 国籍 フランスの旗 フランス
出身校 エコール・デ・ボザール
著名な実績 絵画
代表作 『落穂拾い』、『種まく人』、『晩鐘』 流派 写実主義(レアリスム)
運動・動向 バルビゾン派
受賞 レジオンドヌール勲章(1868年)
後援者 アルフレッド・サンシエ 影響を受けた芸術家 コロー
影響を与えた芸術家 印象派、ファン・ゴッホ、ダリ

ミレーは、ノルマンディー地方のグリュシーで、農家に生まれた。
長男として跡継ぎになることが期待されていたが、18歳の頃から、シェルブールの画家のところで絵の修業を始めた。
教師から才能を見出され、奨学金を得て、1837年からパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に行き、歴史画家ポール・ドラローシュの下で学んだ。
しかし、1839年、ローマ賞に落選すると、学校を去った。
1840年に肖像画でサロン・ド・パリに初入選し、シェルブールで肖像画の注文を次々受けて制作した。
最初の妻ポーリーヌと結婚し、共にパリに移ったが、1844年、ポーリーヌを亡くした。
いったんパリから帰省するが、実家の反対を押し切って交際を始めたカトリーヌとともに、1845年、再びパリに出て、肖像画や女性の裸体画を制作して生活した。
この頃、後のバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソーやコンスタン・トロワイヨン、支援者となるアルフレッド・サンシエと出会った。1847年のサロンに神話画を入選させた。
1848年、2月革命によって共和派が実権を握ると、美術界の民主化が進み、ミレーは政治的支援者を得た。
この年のサロンに出品した農民画『箕をふるう人』が好評を博し、ミレーは政府注文を受けることになった。
1849年、パリでコレラが大流行したことや、ミレーの政治的支援者が失脚したことから、ミレーは、バルビゾンに移住し、先に滞在していたルソーらの仲間入りをした。
1851年のサロンに『種まく人』を提出して入選したが、これが農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージと受け取られ、左右両派の激しい論争の的となった。
第二帝政の時代となった1850年代には、農民画を中心にサロンへの応募を続け、その中には高評価を得るものもあったが、酷評される作品もあった。
1857年のサロンに『落穂拾い』を出品し、これもまた政治的な議論を巻き起こした。
1860年代も好評と不評の波を経験したが、1864年のサロンに出品した『羊飼いの少女』が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まった。
1865年以降、コレクターからパステル画の注文を大量に受け、特に数多くの風景画を明るい色彩のパステルで描くようになり、新しい境地が生まれた。
1867年のパリ万国博覧会では、一室を与えられて9点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立した。
1860年代末からは体調悪化に悩まされながら、「四季」連作などに取り組んだ。
1870年の普仏戦争と1871年のパリ・コミューンでシェルブールに疎開したことなどで、「四季」連作の制作は中断を余儀なくされたが、亡くなった親友ルソーへの鎮魂の意味を込めたと言われる名作『春』を完成させている。
1874年頃から急速に健康状態が悪化し、1875年に亡くなった(→晩年)。
ミレーの作品は、生前から徐々に市場での評価が高まった。ミレーが1860年に1000フランで売却した『晩鐘』は、死後の1889年に55万3000フランで落札されるに至った。
20世紀後半には、印象派・ポスト印象派の画家には及ばないが、ニューヨーク・サザビーズのオークションで数十万ドルという高値で取引されるようになった。
他方、サンシエの伝記やそれに基づくロマン・ロランによるミレー偉人伝を基に、清貧の農民画家という脚色された「ミレー神話」が語られるようになり、フィンセント・ファン・ゴッホもサンシエの伝記を読んで影響を受けた1人である。
特に、ミレー作品にプロテスタンティズムに通じるものを感じ取ったアメリカ人や、偉人伝に影響された日本人の間では、フランス以上にミレー熱が高まった。
ミレーの油彩画は約400点、パステル画は約200点と言われている。
風俗画や風景画は、19世紀半ばのフランス絵画を支配していたアカデミズム絵画では低い評価しか与えられていなかったが、ミレーは、コローや他のバルビゾン派の画家とともに、都市を出て、田園に取材した作品を多く制作した。特に、ミレーは、風景画を好んだ他の画家よりも、働く農民の生活への関心が強く、農民画を多く制作している。都会人の満足するような田園風景を描くのではなく、農民の生活に向き合って真摯に観察したところにミレーの独自性がある。もっとも、晩年に向かうにつれて、風景画への関心も強まっている。
ミレーの作品の影響を最も強く受けたのはファン・ゴッホであるが、そのほかにも印象派や20世紀の画家がミレーを高く評価し、一定の影響を受けている。


参考
Wikipedia
ジャン=フランソワ・ミレー